神は脳に宿る God Is in The Brain

 国語のテストが好きな人って言うのは結構たくさんいる。おたくの人なんかもそうだろうか。そういう人に対して別に僕はうんざりはしないのだけれど、でも、国語のテストが嫌いな僕としては、テスト好きの多くがテスト嫌いな人を嫌う傾向にあるところがうんざりする。

このCM群には、すべて「意味」がない。もちろん作り手はそこをよくわかっていて、「意味」を排した「印象」オンリーで勝負しているわけだ。撮影も(このころのこういう金のかかったCMはみんな35mmで撮影されている)、照明も、シチュエーションもアングルも、みんな「ドラマ」があるような「印象」を強烈にもたらすが、実際は何も語っていない。


そこには文脈と関連した意味がある。まっとうな映画を作る人たちは、自分の映画を意味で埋め尽くす。小道具ひとつ、衣装の色ひとつまで監督がこだわるのは、そこに意味が、隠喩が、キャラクターを象徴するものがあるからだ。かっこよくいえば、映画は「意味の王国」なのである。ふだんなかなか意識しづらいことではあるが、カットが切り替わるタイミングにも、カメラがパンするスピードにも、クローズアップが挿入される瞬間にも、全部「意味」がある。こんな青臭いことをいまさらいうのは本当に恥ずかしいが、こういうアホみたいにわかりきった前提が共有されていない現状というものもある。だからここで一番バカみたいな例をあげよう。通常、映画で雨は絶対に「たまたま」降らない。映画で雨は心情表現として用いられるので、主人公が打ちのめされたり、泣きたい気分だったり、ストーリー上ものごとがどんづまりでどうしようもなくなったときに、象徴として降ることになっている。逆に言えば、雨が降っている場面はそれだけで人物の心情表現になり得るので、「雨が降っている」のに、加えて主人公がその中で泣く必要はなかったりする。最近の日本映画で、雨が降っている中で人物が号泣して、おまけに科白で「オレは悲しい!」というものがあったが、そんなにメガマックみたいに積み重ねる必要はまったくないし、逆にそこまで積んであると「もしかして、この映画を作った人は全然映画の表現の意味がわかっていないのでは…」と不安にかられ、いや、確信するのである。


さて、今回は本当は、中島哲也「監督」の「映画」というふれこみの『告白』という、CMもどきの単なるかっこよさげで意味を欠いた薄汚い映像の羅列について語るつもりだったが、もう面倒くさくなったからやめる。


※太字強調おれ ※中略アリ

http://d.hatena.ne.jp/satan666/20100623/p1

 映画の「告白」のdisなのだけど、ほぼでてこない「告白」のことが。こういう方法もあるんだな、と思った。

たとえば花子が恐怖を感じたとなら、「花子は歯をがちがちと鳴らした」とか「花子は身体を凍りつかせた」「飛び上がった」「目を大きく見開いた」といった具合に動作や状態に置き換える必要がある。


あと風景や天気で心情を表したり。「空は鈍色の雲に覆われていた」「ねばつくような重い空気が部屋を支配していた」「今年の夏の太陽は、まるで地上の生き物すべて焼きつくすかのように激しく照りつけていた」といったような感じで。人物の内面を婉曲に描くことが小説の基本だ。

http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20090805

 小説の新人賞の下読みをして小説の基本を知らない人が多かったって話。で、小説の基本がキャラの心情はストレートに書かないとか、心情は動作や状態、風景で示すとかそんな感じ。


 両者に共通しているのが、『(「表現・虚構」において)「意味・心」は「物質・風景・細部」に宿る』と感じていることだろうか。人が作ったものは意味がある、と考えているのだろう。「表現における陰謀論」とでもいうのかな。作家や監督、スタッフなどの作り手は意識的にせよ無意識的にせよ、その小道具を使ったり、使わなかったり、その表現で書いたりと、「選択」するんだから全て意味を持つと考えるのも、わからなくない。そして、全てに意味があるから、虚構は死の世界なんだろう。リアルにゃ意味はないものね。


 でもなあ、作った人の、作者の意図を読み取る、読み解くなんて国語のテストじゃないんだから勘弁してくれよと思うんだ。もしくはESPのテスト、実験をやらされている被験者じゃないんだから、と。雨が降ったらどうとかって「トゥルーマン・ショー」のようじゃないか。そういう精神的な病気か。


 コミュニケーションの基本はやはり非コミュニケーション性にあると思うので、つげの「ゲンセンカン主人」

「きっと前世の因縁でしょうね」
「前世ってなんのことです」
「鏡です」
「おばあさんはそう信じているのですか」
「だって前世がなかったら私たちは生きていけませんがな」
「なぜ生きていけないのです」
「だって前世がなかったら/私たちはまるで/幽霊ではありませんか」

とか、このばばあや、おかみや、主人のように「意味」を求めてしまうとやはりつらい。もっと、天狗の面を付けた不安の象徴である男のように生きたい。モンスターのように生きたい。


 とにかくまあ、お前の脳みその中でおきていることだぜ、コミュニケーションの価値を下げようキャンペーンです。先史から続くコミュニケーションバブルを崩壊させたい僕としては、意味なんてお前の脳の中のものだろうと言い続けるしかない。誰にも聞こえないか細い声で、どもったことばでつぶやく独言こそ、真実の言葉で、コミュニケーションの言葉なんてなくなってしまえ。