ニュートンのやり方 Man Spectrum , Autism Spectrum

アスペとか自閉症とか障碍特性とかの話はなるべく無しで書きたい。
知り合いの自閉症者(私が働く知的障碍者の施設の利用者ではない)は流暢な日本語でさくさくトリアージの何がいけないのかを張り付いた笑顔で話した。彼は人と喋る時いつも張り付いた笑顔で話す。それ以外は無表情。


http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20100704/p2
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20100704/p2#c


反語が多くて、つかめているか自信がない。
けど、質問だと受けて読まないと、マンスペクトルの中にいる僕としては困る。修辞上の技法かどうかの区別は、偏差値30、IQ84の僕には無理筋。


「なるほど、あなたは自分の「感情」が踏みにじられようが平気なのですね?」
平気なときもある。誰かが僕の「感情」を踏みにじろうとしても踏みにじれないときがよくあって、あとから、あのひとはあなたを傷つけようとしてああ言っていたんだよとか言われて、へぇって思うことはよくある。
これは僕だけかもしれないけど、例えば、ある利用者が僕の感情を踏みにじろうと意図せずにひどいことを言ったり、踏みにじろうとして(そういうコミュニケーションをずっとしてきて、されてきた)ひどいことを言ったりしたら、平気な方かな。
そも、感情がない人もどうやらいる。自分にしか感情がないと思っている人も多い。


「>主観的にそう感じてしまいましたので伝えようと思った次第です。

そんなに感情って大事でしょうか?」
大事だとは思わない。だって、感情が踏みにじられたって人は可哀相だけど、その人が感情のない人を無かったりバカにするなら、その人は大事じゃない。


僕はピアサポートって言う手はあると思う。
こだわりや障碍は精神や脳の構造の話で知性とはあまり関係がない。

人間らしい感情、人間には知性が必要 Do You Really Think That Humanlike Thing Isn't Human ? (Rhetorical Question)

人間らしい感情があまり備わっていない。
知性が感じられない。
僕(IQ84、偏差値30)自身、手帳は持っていないが、僕自身の「障碍特性(嫌いだ、この言葉)」はこんな感じだろうか。


だけどまあ、感情は人間に必須なのか?ところで、十分条件・必要条件の区別がつきません。
ヒトに知性も必要か?
社会とか人間って言うのなら、知性や感情は必要かもしれないけど、ヒトっていうのなら、なくてもいいんじゃねえのか。


感情が乗っかっていない、体重の乗っかっていない言葉、知性的ではない言葉には伝達を阻害する何かがあるのかもしれない。

大丈夫、気が狂っただけだから。

まさかの、死ぬ死ぬ詐欺
知能の高さとメンヘラとか。
苦悩の深さと知能の高さとか。
悪と知能の高さとか。
イノセンスと知能の低さとか。
コミュ力の弱さと知能の高さとか。
・・・


かわいい幻想


なんとなく、アババババババーーーーっっっ!!!

近くの小さな体と遠くの大きな言葉 Near Small Body and Far Big(Capital) Letters

例えば、医者や看護士のような、医療の人なら「治療」とか。
理学療法士なんかの人なら「リハビリ」とか機能回復とか。
教師なんかなら「教育」とか。
ヘルパーとか福祉系、老人関係なら「介護」とか。


僕のような福祉系、障碍者系なら「支援」でありますね。
そういう大文字の言葉、大きな言葉はそのままでは使えないので、引き寄せて加工しなければいけません。
支援する人だから、Supporterと言う。サッカーのサポーターと一緒で、主人公はピッチの上の選手です。「ジャイアントキリング」を見よう。サポーターは主人公を支える人です。「宇宙兄弟」を見よう。モーニングで事足りたwww 支援される人、被支援者、(福祉の?)利用者、障碍者は主人公です。


なんて話を聞かされて、ふふっと、僕は笑った。
俺、生きるっ!!

神は脳に宿る God Is in The Brain

 国語のテストが好きな人って言うのは結構たくさんいる。おたくの人なんかもそうだろうか。そういう人に対して別に僕はうんざりはしないのだけれど、でも、国語のテストが嫌いな僕としては、テスト好きの多くがテスト嫌いな人を嫌う傾向にあるところがうんざりする。

このCM群には、すべて「意味」がない。もちろん作り手はそこをよくわかっていて、「意味」を排した「印象」オンリーで勝負しているわけだ。撮影も(このころのこういう金のかかったCMはみんな35mmで撮影されている)、照明も、シチュエーションもアングルも、みんな「ドラマ」があるような「印象」を強烈にもたらすが、実際は何も語っていない。


そこには文脈と関連した意味がある。まっとうな映画を作る人たちは、自分の映画を意味で埋め尽くす。小道具ひとつ、衣装の色ひとつまで監督がこだわるのは、そこに意味が、隠喩が、キャラクターを象徴するものがあるからだ。かっこよくいえば、映画は「意味の王国」なのである。ふだんなかなか意識しづらいことではあるが、カットが切り替わるタイミングにも、カメラがパンするスピードにも、クローズアップが挿入される瞬間にも、全部「意味」がある。こんな青臭いことをいまさらいうのは本当に恥ずかしいが、こういうアホみたいにわかりきった前提が共有されていない現状というものもある。だからここで一番バカみたいな例をあげよう。通常、映画で雨は絶対に「たまたま」降らない。映画で雨は心情表現として用いられるので、主人公が打ちのめされたり、泣きたい気分だったり、ストーリー上ものごとがどんづまりでどうしようもなくなったときに、象徴として降ることになっている。逆に言えば、雨が降っている場面はそれだけで人物の心情表現になり得るので、「雨が降っている」のに、加えて主人公がその中で泣く必要はなかったりする。最近の日本映画で、雨が降っている中で人物が号泣して、おまけに科白で「オレは悲しい!」というものがあったが、そんなにメガマックみたいに積み重ねる必要はまったくないし、逆にそこまで積んであると「もしかして、この映画を作った人は全然映画の表現の意味がわかっていないのでは…」と不安にかられ、いや、確信するのである。


さて、今回は本当は、中島哲也「監督」の「映画」というふれこみの『告白』という、CMもどきの単なるかっこよさげで意味を欠いた薄汚い映像の羅列について語るつもりだったが、もう面倒くさくなったからやめる。


※太字強調おれ ※中略アリ

http://d.hatena.ne.jp/satan666/20100623/p1

 映画の「告白」のdisなのだけど、ほぼでてこない「告白」のことが。こういう方法もあるんだな、と思った。

たとえば花子が恐怖を感じたとなら、「花子は歯をがちがちと鳴らした」とか「花子は身体を凍りつかせた」「飛び上がった」「目を大きく見開いた」といった具合に動作や状態に置き換える必要がある。


あと風景や天気で心情を表したり。「空は鈍色の雲に覆われていた」「ねばつくような重い空気が部屋を支配していた」「今年の夏の太陽は、まるで地上の生き物すべて焼きつくすかのように激しく照りつけていた」といったような感じで。人物の内面を婉曲に描くことが小説の基本だ。

http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20090805

 小説の新人賞の下読みをして小説の基本を知らない人が多かったって話。で、小説の基本がキャラの心情はストレートに書かないとか、心情は動作や状態、風景で示すとかそんな感じ。


 両者に共通しているのが、『(「表現・虚構」において)「意味・心」は「物質・風景・細部」に宿る』と感じていることだろうか。人が作ったものは意味がある、と考えているのだろう。「表現における陰謀論」とでもいうのかな。作家や監督、スタッフなどの作り手は意識的にせよ無意識的にせよ、その小道具を使ったり、使わなかったり、その表現で書いたりと、「選択」するんだから全て意味を持つと考えるのも、わからなくない。そして、全てに意味があるから、虚構は死の世界なんだろう。リアルにゃ意味はないものね。


 でもなあ、作った人の、作者の意図を読み取る、読み解くなんて国語のテストじゃないんだから勘弁してくれよと思うんだ。もしくはESPのテスト、実験をやらされている被験者じゃないんだから、と。雨が降ったらどうとかって「トゥルーマン・ショー」のようじゃないか。そういう精神的な病気か。


 コミュニケーションの基本はやはり非コミュニケーション性にあると思うので、つげの「ゲンセンカン主人」

「きっと前世の因縁でしょうね」
「前世ってなんのことです」
「鏡です」
「おばあさんはそう信じているのですか」
「だって前世がなかったら私たちは生きていけませんがな」
「なぜ生きていけないのです」
「だって前世がなかったら/私たちはまるで/幽霊ではありませんか」

とか、このばばあや、おかみや、主人のように「意味」を求めてしまうとやはりつらい。もっと、天狗の面を付けた不安の象徴である男のように生きたい。モンスターのように生きたい。


 とにかくまあ、お前の脳みその中でおきていることだぜ、コミュニケーションの価値を下げようキャンペーンです。先史から続くコミュニケーションバブルを崩壊させたい僕としては、意味なんてお前の脳の中のものだろうと言い続けるしかない。誰にも聞こえないか細い声で、どもったことばでつぶやく独言こそ、真実の言葉で、コミュニケーションの言葉なんてなくなってしまえ。

頭が悪いということ/バカにするということ 〜 Tower of Fool 〜

心の中でバカにして、とても後悔をする。
「どうして、僕の言っている事が分からないのだろう?」と……。
コミュニケーションの場で知能の差が即、力関係になることは多々あると思う。教師と生徒や、大人の親と小さな子どもの関係なんかを見れば比較的分かりやすいのではないのだろうか。


「どうして、僕の言っている事が分からないのだろう?」に関して言えば、コミュニケーションの本質は非コミュニケーションにあると思うので、当然なのだ。通じない、伝わらないが当たり前。通じたと思ったら、誤解だったり。それでも、全く伝わらないわけではない。だからある意味たちが悪いのかもしれないんだけど。
言葉が伝わるなんて、電波ゆんゆん出ている人のたわごとだと思うんだ。


でも、全く伝わらないほど閉じているとは思えない。「正確には伝わらない」そして、どの程度伝わるかはシンクロ率ではないのだろう、他の何かなのではないかと。


話は戻って、
心の中でバカにして、とても後悔をする。
「どうして、僕の言っている事が分からないのだろう?」と……。
コミュニケーションの場で知能の差が即、力関係になることは多々あると思う。
僕の場合なら、利用者と利用者、利用者と支援員の間なんかを思い出す。力関係って側面でしか関係を築けないなんて寂しすぎるけど、まあ、やはり、力関係ってある。だけど、それが固定化さえしなければ、問題はない、と思うんだけどなぁ。


固定化してしまうんだよな。プロとは思えない言葉だけど、僕がバカで、さらに、福祉の勉強なんかしてこなかったからだろうか。


たまに、ハッと気付いて死にたくなるけど、それにも慣れてきて、さらに死にたくなる。メタループというよりメタスパイラルの完成。しかし、そんなことに悩まずにいれるカシコな人たちを見ると、学歴コンプとあいまって怒りと悔しさがこみ上げてくる。こいつら、へらへらバカにしやがって、と。IQと偏差値に税金かければいいのに。


知性なんてものに意味がないなと思ってしまうのは、やはり、本来は知性ってのは知性のない者のためにあるものなのに、ほとんど、知性のある者が知性のある者のために使っている点において意味がないな、と。そんなことも気付けないのかよ、と。


頭がいいヤツはバカが嫌いなヤツが多い。バカを理解しようなんて思わない。バカと関わりたくないヤツらだ。カシコはバカを檻の中に、もしくは柵の外に行かせたい。現に行っている。教育なんてバカのためにあるだろうに、とかは、わかりやすいかな。知的障碍者なんて意識の外だよね。罪悪感すらないんだから。反省なんてできない。