はてサが知的障「害」者を差別する理由

IQ84の僕は厨ニ病なので詩を作る、よく。

テロリストになりたい。
インテリゲンチャを仮想敵にして爆弾を爆発させたい。
だけど、爆弾の作り方がわからない。
さて、どうしよう?

あたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるいあたまがわるい


さて、
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20100213/1267051336
のコメント欄に僕は

naok1991 2010/03/01 07:33
文学って私的な領域と公的な領域を繋げてくれるもんじゃないのかなあと。だから、まんが版のプラネテスのハチマキの「…………」「船長がさ/もしも彼の/目指す通りにさ」「人間みんな/一人残らず/赤ン坊から/じいちゃんまで」「心から/感動させる/名スピーチが/できたならさ/……」と言う言葉にドキドキしたものですが。一方で、文学は商売でサービス業なので、効率よくサービスをしようとしたら、客層をある程度狙って絞ってやる方が、客にも売る方にもメリットが大きいです。効率よく感動する・させるには当然です。
さて、http://anond.hatelabo.jp/20090908191812に書かれている人みたいな、能力の高い・頭の良い障碍者とか、イノセントな障碍者が物語の中では活躍するわけで、山田花子のまんがみたいなものもあるのですが、それは例外で、だから、ツンとデレがセットになっているのを見るととても切なくなるのですよ。キャラってそんなもんだろう?まあ、そうだけど、屈託ない笑顔で、忸怩たる思いはすっ飛ばして、葛藤なんかなくて、キラキラした瞳で、純真な眼差しでこっちを見られると、涙が出るのですが。
で、おれの美意識だとか、ボクたちの文化だとか、悩んでいるんだぜってエクスキューズだとか、も、糞みたいだとか思うんですが、だから政治的行動しかないですよねとか、もだるいですし。そもそも、馬鹿は議論に参加できませんし、経済的な力も全くの純粋な偶然以外はなかなか持ちえません。だから、社会に存在しません。昔、神だったけど、今、ガイストですね。おお、そもそも、ラテン語ホモ・サピエンスなんだから、当然です。
intelligent obligationなんか文学に参加できる頭の良い人が、文学に参加できる程度の頭の悪い人に果たせばいい程度のものですよね。
で、何が言いたいか?内心の自由なんてものを気軽に持ち出せるセカイとボクが切り離されている万能主義者に、コミュニケーションなんてのがとんでもなくへたくその人間が繰り返す失敗を、どこにでも行ける切手を貼ったのに誰にも届かないことなんて結構あることです。「君に届け」なのかみんなに届けなのか。君たちに僕は入っていない。僕たちに君は入っているのに。「ワールド・イズ・マイン」かワールドイズユアーズか。
内心が密室で表現の自由があるのならコミュニケーションなんか要らないね、オールドタイプ諸君。砂塊の幽波紋を操る犬が珈琲味のチュウイングガムに喜んでも、けして「人間」にはしっぽ振らん。「イルカと胎児とIQテスト」ってタイトルのラノベを書けばいいのにね。
naok1991 2010/03/01 07:45
あと、ブクマの塔を見ると、やはり、カシコにとって、バカを想像することの難しさがあらためてわかった。想像力は経験で結構埋めることができるのになぁ。

と書いたのだが、もう、なんのことだかw


と、まあ、自分のことは置いといて。

あべ・やすし氏id:hituzinosanpoややねごん氏id:lever_building米津篤八id:mujigeなどの各氏は、以前からかな書きでブログ記事やハイク記事を書いている。漢字表記は漢字の読めない「漢字弱者」に対する排除である、というのが彼らの主張だ。

漢字が 排除するもの - hituziのブログじゃがー
漢字は、文字表記として ふくざつすぎるために、さまざまな文字弱者を 排除し、抑圧している。
もちろん、漢字を なくせば 文字弱者が いなくなるわけでは もちろんない。だが、おおきく改善することが たくさんある。
わたしが「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者、中途失聴者、読字障害を もつひと、知的障害者、日本語学習者です。
そうしたひとたちが文字情報にアクセスする権利を うばっているのが、いまある日本語表記に ほかなりません。漢字が障害となる どあいは、それぞれ ことなっています。けれども、なんらかの かたちで、漢字は障害として はたらいているのです。

2008-08-02
 よみかきの しかたが ふくざつで、その習得に 手間と時間が かかるものであるほど、経済力や 文化資本が ものをいうように なります。また、その ふくざつさは にほんごが 母語でない ひとにとって こくごの よみかきの 習得を いっそう むずかしいものに しています。「にほんごを 母語とする ひと」、また「にほんごをあらたな 言語として 習得した/しつつある ひと」の いずれにとっても、【にほんごを はなすことができても、 こくごを まんぞくに*4 よみかきできない】という 状況が うまれやすくなるわけです。


 このようにして こくごの よみかきの 技能は、ひとりひとりの ひつようや べんりさを みたすものというより、むしろ「子どもを選別する」手段になりさがっているのです。このことは よみかきに かぎらず、学校教育を とおして つたえられている 技能や 知識の おおくについていえることでは ないかと おもいます。選別そのものが もくてきに なっている。選別のために 学校が 運営され、カリキュラムが くまれ、授業がおこなわれている。しかも、そこで おこなわれる 競争は いかさまだ。

よみやすさって、なんだろう - hituziのブログじゃがー
言語というもの、その表記というものが「絶対的なもの」として存在し、その社会で生活するひとは、「ただひとつ」の言語や表記を身につけ、使用しないといけないという社会には、すみたくありません。そのような社会には したくありません。

 これらの論に対する個人的な見解は、最初に引用した記事につけた「本質的には権力関係の話なんだと思っている。フーコー的な意味での。単に漢字排除したら読みやすいか読みにくいかでなく、そこまで読み解かねばならないのではないか」というブックマークコメントである。彼らの論には多くの点で肯けるものの、自分自身は漢字も用いた日本語表現にフェティッシュな愛着を感じている(わりとヘンな漢字使いたがる中二病な面は否めない)物書きなので漢字使用をやめられないという、ひととしてダメな感じのダブルスタンダードだ。学校教育についても、自分が数回の選別を経てよい中学・高校、よい大学へ行った受益者であることは疑いようもない事実なので(客観的に見るとワーキングプア以前だが)、学校教育を解体せよとはなかなか叫びがたい――と、正直に記しておく。

あべ・やすし氏id:hituzinosanpoややねごん氏id:lever_building米津篤八id:mujigeが言うてることが正直よくわからんのだが、まあいいや。
http://anond.hatelabo.jp/20090908191812に書かれているような人が好きな人ではなさそうだ、ので、まあいいや。
で、好きそうな、id:y_arimさん、あたりが問題なのだと思う。
例えばだ、僕が働いている知的障害者の入所更生施設で「あたまがわるい」なんて言葉を使ったら、どうなるだろうか。

y_arim 2009/04/26 14:55
ぼくの文章のどこからそう感じたのか興味があるけど、たしかに池沼とまでは行かなくとも「あたまがわるい」ひとにはものすごい不快感ばかり覚えるのが常だ。「なんであいつらこんなことがわからないんだ」「いや世の中のたいていの連中お前より頭悪いから」「うーーーむ」というかなりひどい会話が、身内ではたまに行われる。

NaoK un for get table 1991

NaoK un for get table 1991

y_arim 2009/10/04 04:01
正直に書いたほうがマシだろうと思ったんで書くが「頭が悪い人間」は大嫌いだ、ぼくは(まあそのことはネットでもわりと公言している)。想像どころか、できることなら一生接さずに生きていきたいくらい。池田信夫梅田望夫の気持ち、実のところ、わからんでもない。

とコメント欄に書いた。

naok1991 2009/10/04 05:17
y_arimさん、コメントありがとう。好き嫌いはどうでもいいんだ。正直どうでも。多分、僕は、一番ひっかかるところは、「一生接さずに生きたいくらい。」ってところなんだ。
例えば、子供。
子供が嫌いって言ってもいい世の中になりつつある。それはいいことだ。僕は子供と接するのが苦手で、だから、あまり、好きではない。
で、童貞でこれからもソウであろう自分としては、自分の子供(仮)、他人の子供分け隔てなく苦手だろう。
だけど、子供と接さずに社会生活を送るっておかしなことだと思うんだ。虐待する親とか非難しても、何だか違うんだ。
むしろ、子供と接さずに生きれるって、子供を隔離していることじゃないか?頭がいい人なら頭の悪い僕のたとえを汲み取ってね。(これは、セコ技だから気にスンナ。)
でもさ、頭が良いんなら、もっと頭よく考えてくれよ。でも、考えれないんだろう?それは、言うたら、「こだわり」とか、障碍とか言う話やん。それもわかってんねやろ?
まあ、つまり、プライド高い割りに、自己愛低いねって話やんさ。いや、これは違うか。
まあ、悪とか開き直るとか、大人としてどうなのよって話デス。だって、違いはないからね。
僕自身は、IQ低くて偏差値低い人間って言うのは、文を読めばわかるだろう。んで、頭のいい人や、池沼と接して違いがあるかと言うと、クツの先が、ちょっとちがう、程度ですわ。
いや、もう、頭の悪いことのせいにしてはいけないんだろうけどね。


僕たちに課せられた逆説 - 地下生活者の手遊び

個人の好みの自由があるというのはアタリマエ。誰にだって好き嫌いはありますにゃ。僕だって嫌な奴は嫌だし、好きな相手は好き。これは個人の内心の問題であって、他者に干渉されるいわれのある話ではにゃー。

個々人に好き嫌いの自由があるってのはいいんだにゃ。
しかし
個々人が自由に判断した結果のはずの「総意」に明らかな偏りが見られるとき、そこでは何かが起こっていることは間違いにゃーよね?

個々人の内心の自由としての「好き嫌い」を認めることからは、マジョリティがマイノリティに「嫌い」とヘイトを垂れ流すことを認めることが導けるわけにゃーだろが。

いや、何を言っても無駄なんだ。頭がいい人には頭が悪い人間の言葉は「より」届かない。きれいな知的障碍者ときたないバカに分けるしかない人たちなんだから。と、思っていたんだけど、やめた。もう、オレは大人になる。おれはわからしてやる。おれこそが、本当の反知性主義者だからだ。


と、まあ、カルアも回ってきたところで、あらゆることを、自分の知性も含め言い訳にしつつ戦っていかねばならない、僕は。なんてたって、性差別がなくなる未来でも残る差別が頭のよしあしだからだ。ガタカ見ろ、映画の。